伊豆半島で発生した自然災害の歴史と、防災・減災への努力の一部を紹介します。
- 箱根・新規軽石流 (65Ka)
- 御殿場泥流 (2700a)
- 小下田・三島神社 明応地震の津波(1498年)
- 戸田・平目ヶ平 明応地震の津波(1498年)
- 川奈・恵鏡院・津波供養塔 元禄地震の津波(1703年)
- 大崎・行蓮寺・津波供養塔 元禄地震の津波(1703年)
- 伊東・仏現寺・津波供養塔 元禄地震の津波(1703年)
- 川奈・海蔵寺・津波碑 元禄地震の津波(1703年)
- 下田・稲田寺・津なみ碑 安政東海地震の津波(1854年)
- 下田・長楽寺・石段 安政東海地震(1854年)の津波
- 下田・了仙寺・梁 安政東海地震(1854年)の津波
- 土肥・浪尻観音 安政東海地震(1854年)の津波
- 川窪・震災追弔碑 安政東海地震(1854年)
- 初島・隆起海成段丘 関東地震(1923年)
- 丹那断層公園 北伊豆地震(1930年)
- 田代・火雷神社 北伊豆地震(1930年)
- 江間・地震動の擦痕 北伊豆地震(1930年)
- 梶山・大崩壊 北伊豆地震(1930年)
- 城・隆起 北伊豆地震(1930年)
- 城・陥没 北伊豆地震(1930年)
- 狩野川台風慰霊碑 狩野川台風(1958年)
- 狩野川台風浸水標識 狩野川台風(1958年)
- 狩野川台風資料館 狩野川台風(1958年)
- 筏場・大崩壊跡 狩野川台風(1958年)
- 中木・慰霊碑 伊豆半島沖地震(1974年)
- 河津・ループ橋 伊豆大島近海地震(1978年)
- 手石海丘 海底火山の噴火(1989年)
- 大浦・津波石
- 御浜岬・イヌマキ
- 丹那・渇水対策記念碑
災害・防災
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北伊豆エリア・三島災害・箱根・新規軽石流
多呂のお寺の東側には、約6万5千年前に箱根火山から流れ下った軽石火砕流が堆積した崖があり、人工的に洞穴を掘って利用しています。
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北伊豆エリア・清住緑地災害・御殿場泥流
清住緑地の湧水が侵食した崖(東側)には、約2700年前に流れ下った御殿場泥流の堆積層が露頭します。
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西伊豆エリア・小下田災害・三島神社
明応七年の大津波で、神社と周りの家が流されました。その後、村人は神社より高い所に移り住みましたが、神社を元の位置に建てて、入口となる鳥居は上に建てました。集落から神社に詣でるのに、下ることになるので、下り宮(さがりみや)と呼ばれます。
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西伊豆エリア・戸田災害・平目ヶ平
明応の東海地震の津波でヒラメが打ち上げられたことから付けられた地名という言い伝えがあります。海から約4Km離れたこの場所まで津波が押し寄せたのです。
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東伊豆エリア・川奈災害・恵鏡院・津波供養塔
元禄地震の津波による多くの犠牲者を供養する塔が建てられました。
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東伊豆エリア・大崎災害・行蓮寺・津波供養塔
1703年元禄関東地震の津波供養塔は、地震発生直後に、発生した津波による多くの犠牲者を供養するものです。
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東伊豆エリア・伊東災害・仏現寺・津波供養塔
左の自然石の塔は元禄地震の津波による犠牲者を供養するものです。五輪塔と奥の塔は関東大震災の供養塔です
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東伊豆エリア・川奈災害・海蔵寺・津波碑
関東大震災の際に、津波は川奈漁港近くの海蔵寺の階段の説明版(下から6段目)の所まで押し寄せました。元禄地震の際には、上から2段目まで浸水したとそうです。
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南伊豆エリア・下田災害・稲田寺・津なみ碑
稲田寺境内左側には安政東海地震後の大津波で犠牲となった方々を供養する津なみ塚が建立されています。
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南伊豆エリア・下田災害・長楽寺・石段
安政東海地震で発生した津波は、長楽寺の石段の下から2段目まで津波が到達したとのことです。
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南伊豆エリア・下田災害・了仙寺・梁
安政東海地震による大津波が下田港を襲いました。高さ5~6mの津波が船を流し、龍泉寺の梁(軒を支える張り出し板?)に、大きな傷跡を残しています。
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西伊豆エリア・土肥災害・浪尻観音
馬場二つ石の道祖神ですが、安政地震の津波がここまで来たので、波尻観音とも呼ばれます。
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北伊豆エリア・川窪災害・震災追弔碑
安政東海地震で陥没しました。民家9戸が埋没して、生き埋めになった犠牲者を追弔するために明治36年に建立されました。
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東伊豆エリア・初島災害・隆起海成段丘
初島は三段の海成段丘ですが、1923年の関東地震の際には、約2m隆起しました。
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北伊豆エリア・丹那災害・丹那断層公園
昭和5に、丹那盆地の地下にある丹那断層を含む北伊豆断層帯がずれたことにより、マグニチュード7.3、震央での震度 6という北伊豆地震が発生しました。狩野川に沿った地域からで倒壊した家屋が多く、2165戸の家屋が全壊し、死者・行方不明者272名の大きな被害となりました。
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北伊豆エリア・田代災害・火雷神社
昭和5年の北伊豆地震で、田代盆地の南端にある火雷神社の古い鳥居は崩れ落ち、鳥居と石段の間を丹那断層が寸断して、1.4mの左横ずれ断層が記録されました。
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中伊豆エリア・江間災害・地震動の擦痕
昭和5年に発生した北伊豆地震の際に、震源地から約8Km離れた田方平野は強い揺れに襲われました。その当時の小学校校庭隅に展示されていた魚雷とその台座が地震の揺れにより、すれてP波とS波を魚雷表面に記録しました。
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中伊豆エリア・梶山災害・大崩壊
昭和5年に発生した北伊豆地震の際に、奥野山が崩壊しました。崩壊した土砂は一時的に狩野川をせき止めました。
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伊豆エリア・城災害・隆起
昭和5年の北伊豆地震の時に高さ5mの隆起が生じました。
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伊豆エリア・城災害・陥没
昭和5年の北伊豆地震の時に、隆起地形と城川を挟んだ北側の山の上にあった桑畑は陥没しました。川の流れには影響が無かったので、川越地すべりとの解釈がされています。
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中伊豆エリア・熊坂災害・狩野川台風慰霊碑
昭和33年の狩野川台風の被害からの復興記念として、最も被害の大きかった熊坂地区に公園が建設され、殉難者慰霊碑などが建立されました。
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中伊豆エリア・熊坂災害・狩野川台風浸水標識
狩野川台風で浸水した熊坂には、浸水高さ(2m27cm)を示す標識が建ち、災害の記憶を呼び起こします。
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中伊豆エリア・墹ノ上災害・狩野川資料館
狩野川台風のの歴史的な災害を後世に伝えるために、国土交通省が建てました。展示室の見学は祝日・年末年始を除いて可能です。
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中伊豆エリア・筏場災害・大崩壊跡
蛇喰川(じゃはみがわ)の火砕流(かさいりゅう)堆積層が崩壊した現場です。狩野川台風時の鉄砲水で、蛇喰山の中央を押し流し、土石流となって下流に流出しました。
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南伊豆エリア・中木災害・慰霊碑
中木記念公園には、1974年に発生した伊豆半島沖地震による山崩れで生き埋めとなったり、火災の犠牲となった人たちの慰霊碑が建てられました。
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南伊豆エリア・河津災害・ループ橋
急斜面を通る国道の高低差(45m)を二重のループで、ショートカットする橋です。1978年の伊豆大島近海地震で崩れた崖を避けるためにつくられました。
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東伊豆エリア・伊東沖災害・手石海丘
汐吹崎の沖に、手石島があります。1989年に手石島の北約2kmの深さ95mの海底で噴火した手石海丘が伊豆東部火山群の最新の噴火です。
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南伊豆エリア・大浦災害・津波石
大浦の波食棚(はしょくだな)には、津波で運ばれたと考えられる大岩が転がっています。
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西伊豆エリア・戸田災害・御浜岬・イヌマキ
御浜岬の先端部、約15000平方メートルの地域にイヌマキが群生しています。樹齢100年を越える木もあり、これらの木々は過去に何回もの津波に耐えた優秀な防災林です。
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北伊豆エリア・丹那災害・渇水対策記念碑
丹那盆地の地下160mでの東海道線・丹那トンネル工事(大正7年~昭和8年)が原因で、丹那盆地は渇水に見舞われました。その後の救済対策で飲み水や農業用水は確保できましたが、一部の農家は補償金を元に酪農に転換しました。 スクールバスのバス停[記念碑前]には、複数の記念碑・顕彰碑が設置されています。 中央の高い石碑が、渇水救済記念碑です。
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中伊豆エリア・墹ノ上防災・減災・狩野川放水路
狩野川中流域の氾濫による下流域での洪水を防ぐために、下流域の手前で海にバイパスする人口の水路を設けました。放水路が1965年に完成して、それ以降は狩野川の氾濫は最少に抑えられています。
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北伊豆エリア・沼津港防災・減災・びゅうお
沼津港の内港とその後背地(こうはいち)の50ha、 9,000人を津波から守るために作られた水門です。津波をシャットアウトする扉体(ひたい)は、幅40m、 高さ9.3m、重量は406tと日本最大級です。
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中伊豆エリア・天野防災・減災・陸閘
狩野川の氾濫から、天野の集落への浸水を防ぐために設けられた陸閘が残ります。
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北伊豆エリア・政戸防災・減災・陸閘
政戸と日守の間にも陸閘跡が残ります。大平と徳倉の間の陸閘と併せて、大平地区の浸水を防ぐ目的でした。放水路が完成してからは使われていません。
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北伊豆エリア・静浦防災・減災・陸閘
獅子浜(ししはま)を含む静浦(しずうら)地区は、海抜3m前後の場所が多く、津波対策として5.8mの津波をふせぐために陸閘などの施設が設けられています。