伊豆半島に残る七つの不思議とは?
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夫は戦に駆り出されて行方知れずになっており、大変貧しい暮らしをしていましたが、あるとき村のお寺の和尚の勧めで、ふたりして峠を越えた熱海の湯治場へ商いに出かけるようになったといいます。
この熱海へ行く途中の峠には、大きな岩があり、商いに出かけるたびにこの岩のそばで休みながら語らうのが二人の習慣でした。
商いのほうはなんとか軌道に乗り、母子の暮らしがようやく楽になりかけた頃のこと、おらくは病を得て帰らぬ人となってしまいました。
与一は悲しみのあまり、母と共に語らった大岩に向かい、声をかぎりに母を呼び続けたところ、岩の底から「与一よー、与一よー」と懐かしい母の声がこだましてきたといいます。
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この神池が、半島または岬の先端にもかかわらず淡水池であることから、伊豆七不思議の一つとされているのです。 このビャクシンの樹林は、海から最も近いところでは距離が20メートルほど、標高も1メートルほどしかないので、海が荒れた日にはこれを飛び越して海水が吹き込みます。
にもかかわらず淡水池であり、コイやフナ、ナマズなどの淡水魚が多数生息しているところが、不思議とされているゆえんです。
駿河湾を挟んで北方およそ50キロメートルの富士山から伏流水が湧き出ている、などとする説もある一方、海水面の上下に従って水面の高さが変わるとも言われていて、何故淡水池であるかは明らかにされていないそうです。
古くから池を調べたり魚や動植物を獲ったりする者には祟り(たたり)があるとされ、また、池の中がもしかなり珍しい環境である場合には、下手に調査をするととり返しのつかない環境破壊を招いてしまう可能性があることから、これまでも詳しい調査はされていないんだそうです。
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桂川で病んだ父親の体を洗う少年を見つけ、その孝行に感心した大師は、「川の水では冷たかろう」と、手に持った独鈷杵で川中の岩を打ち砕き、霊泉を噴出させた、というのです。
大師は、温泉がわき出ると、これが病気に効くことを父子に説き、これによってその父は長年患っていた病気を完治させることができた、と伝わっていて、この話が広がったために修善寺温泉の湯治療養が有名になり、現在の修善寺温泉郷ができたとされています。
この独鈷の湯ですが、もともとはもっと上流にあったそうで、大雨のときに川の流れを堰止めないようにということで、現在の川幅の広い場所に移されたとか。
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天平年間、堂ヶ島に紀伊国熊野から来たという海賊の一団がいました。海賊の頭目の名は「墨丸」といい、たくさんの手下を従え、沖を行く船を襲い、村々を略奪するという悪いヤツでした。
このころ、伊豆の海沿いの村々では都への貢ぎ物として、特産の鰹節や砂金を収めていました。ある年、ある村で、その貢ぎ物の荷支度も終え、祝いの宴も終わってほとんどの村の人々が家路につくころ、墨丸が率いる海賊たちが砂金目当てに押し入って来ました。
村人たちは必死に応戦したものの、最後には砂金を奪い取られてしまいます。砂金を手にして意気揚々とアジトへ帰ろうとする海賊たちが、その村の薬師堂の前の橋に差し掛かったときのことです。
橋がまるで地震のように大揺れにゆれ、海賊たちは一向に反対岸に渡ることができなくなりました。そして海賊たちは、しまいには橋の下の流れに、次から次へともんどり打って落ちていきました。
大将の墨丸も最後まで大事そうに砂金の袋を抱えていましたが、この墨丸の前だけには、なんと、仁王さまが現れ、墨丸をつまみあげると、そのままお堂の薬師如来さまのところまで連れて行き、その前に差し出したのです。
薬師如来さまは墨丸に罰を与えると思いきや、とつとつと人の道を説かれはじめました。それによって心を打たれた墨丸は、それまでの悪行を悔い、以後この薬師堂の守護に尽くすようになります。
そして、このあと、この薬師堂の前の橋は、心の汚れた者が渡るとゆれる「ゆるぎ橋」と呼ばれるようになったといいます。
このゆるぎ橋ですが、月経になった女性が渡るとゆれるともいい、また、橋から削った木片を焚きその火を見せると夜尿が治るとも伝えられているそうです。
この橋や薬師堂が本当にあったのかどうかはわかりません。言い伝えによると、その後風雨に曝された末、橋も薬師堂もなくなってしまい、現在では、由来を書いた石碑だけがその場所に残っているということです。
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昔、河津の郷に杉桙別命(すぎほこわけのみこと)という武勇に優れた男の神様がいました。ある日のこと、命が酒に酔い野原の石にもたれ眠っていると、そこに野火が起こりあっという間に周りを囲まれてしまいました。
と、そこにたくさんの小鳥が飛んできて河津川から水を運び火を消しはじめ、このおかげで、杉桙別命は難を逃れることができました。このことがあってから、杉桙別命は、酒を慎むようになり、村人にも一層、慕われるようになったということです。
この伝説から、河津では命が災難にあったという12月18日から12月24日の間、鳥を食べない・ 卵も食べない・ お酒を飲まないという「鳥精進酒精進(とりしょうじんさけしょうじん)」が守られているそうで、この禁を破ると火の災いに遭うと信じられているということです。
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この洞窟、弥陀窟(あみだくつ)とも、弥陀岩屋、弥陀ノ岩屋とも呼ばれており、1934年(昭和9年)に「手石の弥陀ノ岩屋」の名称で国の天然記念物に指定されています。
その昔、手石の近くに七兵衛という漁師がいました。妻を亡くし、3人の子供を抱えて貧しい暮らしを送っていましたが、あるとき、末の子の三平が重い病気にかかります。近くの寺に願を掛け朝夕お祈りをしていると、ある日七兵衛の夢枕に観音様が現れ、「洞窟の海底にある鮑を取って食べさせよ」と告げました。
七兵衛が小船で洞窟に漕ぎ入ると、奥から金色の光と共に三体の仏様が現れました。目も眩んだ七兵衛が思わず船底にひれ伏し、おそるおそる目を上げると、船の中にはたくさんの鮑(あわび)が投げ込まれていたといいます。これを持ち帰り、三平に食べさせたところ、病気はやがて回復したといいます。
そして、この洞窟での霊験が人々の口から口へと伝わり、やがては広く日本全国に知られるところとなったといいます。
この伝説は洞窟の中で起きるある自然現象が伝説化したのではないか、という説があります。それは、大潮で波の静かな晴天の日の正午頃、この洞窟の奥のほうに小舟で入りこむと、その天井に鳩穴という小さな縦穴が空いていて、ここから洞内に差し込む日光が、洞内の暗部を照らすのだそうです。
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この神社、海面から30メートル以上の断崖絶壁の上に社殿が建てられていて、その基礎には、千石船の帆柱が使われているということです。
その昔、播州(現兵庫県)の濱田港から塩を運んでいた千石船が、ある日石廊崎の沖で嵐に遭います。船の船頭は、もし無事に帰れたら、その船の帆柱を石廊崎の権現様(石廊権現)に奉納するから、と誓って祈ったところ、なんとか嵐を切り抜け、無事に江戸に到着することができました。
そして江戸を発ち播州へ帰るその途中のこと。帆柱奉納のことをすっかり忘れていた船頭を乗せた船は、なぜか石廊崎の沖で船が進まなくなってしまいます。しかも天候が急変して暴風雨になり、船が沈みそうになってしまいました。
往路で誓いを立てたことを思い出した船頭は、あわてて千石船の帆柱を斧で切り倒したところ、不思議なことにその帆柱は、ひとりでに波に乗り、石廊権現の社殿の真下の断崖絶壁をこえ、社殿にまるで供えたかのように打ち上げられたそうです。
そして、これと同時に暴風雨も鎮まり、船は無事に播州へ戻ることができたといいます。
その帆柱?は、社殿の基礎として今も実際に残っているそうです。材質は檜で長さは約12メートルもあり、現在では社殿の床の一部がガラス張りにされ、直接覗くことができようになっているとか。
伊豆の民話
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天正10年の12月、朝比奈彌太郎という武士は若い侍者を連れて、雪化粧の日金山の尾根へと辿り着いた。黄昏時の伊豆の風景を眺めながら、日暮れの早い冬のため、急いで山を下り始めた。
すると、行く手に大変大きな男が立ちふさがっていた。片手にたいまつ、もう一方には太い鉄棒を持ち、色黒で額ははげ上がり、ヒゲが伸びきっていた。
彌太郎は「いったい何者であるか」と問うと大男は「日金山に住まうものです。今来るものがありますので、待っております」と答える。彌太郎が側を過ぎようとすると、大男「お願いがございます。この後、山を登る17,18の娘に会いましたら早く行くようことづけくださいまし。」と言う。
彌太郎は耳にしながら、坂を下っていると、後ろから若い女性の悲鳴が聞こえる。先ほどの大男が居た辺りであったか、こん棒で叩き付ける音も聞こえるが、彌太郎は恐ろしさから山を急いで下り、ついに玉沢へ着いた。
すると、大勢の人が死者を火葬しているのが見えた。彌太郎は「誰が亡くなったのだ」と問うと「箱根関所の守の娘で17です」と答える。そこで彌太郎は思わず、侍者と目を合わせたのだった。彌太郎はその後、韮山へ向かっていった。
昔から日金山には地獄があり、伊豆で亡くなった人の魂が集まる場所といわれている。あの大男は地獄からの使いである鬼であり、玉沢の娘の魂が来るのを待っていたのだろう。その後、彌太郎が日金山で鬼と出会った話は伊豆へ伝わっていった。
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それによれば、かつて吉田の大池には真っ赤な色をした牛の怪物「赤牛」が住み、しばしば船を転覆させて住民を食べたりしていた。困り果てた住民は、高名な僧侶に頼んで7日7晩の祈祷をしてもらったところ赤牛を鎮めることに成功し、以後は平和な湖に戻ったという。
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夕暮れになるまで続けていると、小舟が揺れ始めたと思った瞬間、大きな海坊主が海の中から現れて「ひしゃくをかせ、ひしゃくをかせ」と怒鳴ってきた。
漁師はびっくりして腰を抜かし震えながら「ひしゃくなぞない、ひしゃくなぞない」と答えると、海坊主はやがて海の中へと消えていった。
それから何日も過ぎた頃、数名の者が沖に出て漁をしていた。その日もたくさんの魚が穫れ、夕暮れ時には多くの魚で船が一杯になった。漁師たちは喜んで港へ帰ろうとすると、汐がうねり始め、船が揺れ始めた。
漁師たちが沖を見ていると、大きな海坊主が姿を現し「ひしゃくをかせ、ひしゃくをかせ」と近づいてくる。あまりの恐ろしさに漁師の1人が手元に持っていたひしゃくを海坊主へ投げてやった。
ひしゃくを持った海坊主は船に海水をジャブジャブと注ぎ、船はあっという間に沈んでしまった。港まで泳ぎたどり着いた漁師はあまりの出来事にしばらくは浜で伏してしまった。
これよりのち、富戸の漁師たちは海坊主に出会うと、ひしゃくの底を抜いて貸すようになった。
ここ東伊豆には石丁場が多く、このぼなき石もその築城石として使われるはずでした。しかし、この石を運ぶことができなかったことから、村人達の間で「ぼやき」をしてしまい、ぼや(な)き石と言われるようになりました。
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その頃、天城山には万二郎天狗と万三郎天狗という兄弟の天狗が住んでいて2人は人間たちが争うのを見かねて、ある日一計を思いつき万二郎と万三郎岳からそれぞれ大きな岩を運び、間に石をはさんで境界を作りました。
『これからは、このはさみ石が境界だ。もう争いはするなよ』と天狗達は村人の前でそう戒めの言葉を吐くと、再び天城の山へ帰って行きましたとさ。
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そんなある日のこと、農夫の与市が浄蓮の滝を通り過ぎようとすると、足に蜘蛛の糸が幾重にも絡みつき、身動きがとれなくなってしまいました。近くの切り株に糸を巻き付け立ち去ろうとすると、その切り株が地面から引き抜かれ、宙を舞い滝壺へと吸い込まれていったのです。
すると滝壺から女性の声が聞こえ、今日のことを誰にも話さぬようと与市に警告します。
この教訓を守り、滝周辺の名主となった与一は、滝周辺の樹木の伐採を禁止し、滝へは近づかないよう働きかけました。
しかし時は流れ、数十代のちの後裔・与左衛門は、代々守ってきた掟を破り、滝の隣で木を切ろうとします。そのとき手を滑らせ、斧を滝壺へ落としてしまったのです。
すると水中から斧を手にした姫が現れ、今日の出来事は秘密にするよう与左衛門に告げました。
姫は滝の主である女郎蜘蛛に違いない!そう思った与左衛門は、恐怖から逃れるように酒に溺れる日々を過ごしました。
そして、雨風が強く吹くある日のこと。与左衛門の家に仲間たちが集まり、酒盛りをしていました。そのとき、ポロリと滝での出来事を漏らしてしまったのです。すると雷鳴がとどろき、白い火柱が与左衛門の家を真二つに引き裂きました。裂け目をのぞくと、中には目をらんらんと輝かせた、不気味な大蜘蛛の姿があったという。
後日、与左衛門は冷たい屍となって、滝つぼから浮かび上がってきたそうだ。
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万太郎は西伊豆の達磨山、万次郎は天城の万次郎岳、万三郎は万三郎岳に住んでいた。万三郎は八丁池を持っており、万三郎の妻は八丁池で洗濯をしていた。
ある時、洗濯をしている時に、7つの頭を持った大蛇が万三郎の妻を食べようと近寄って来た。それに気がついた万三郎の妻は万三郎に「助け」を呼んだ。万三郎は駆けつけるとすぐに大蛇に剣を抜いて戦おうとしたところ、大蛇はおそれをなして林に消えていった。
万三郎は大蛇が後日戻ってくるだろうと思い、兄の万太郎・万次郎と話し合い、八丁池に強い酒を満たした樽を7つ置いておくことにした。
後日、大蛇が現れると、すぐにこの樽を見つけて大蛇は7つの樽の酒を飲み干してしまった。酒に酔ってしまった大蛇を見ると、万次郎・万三郎は刀を持って大蛇を切り刻んだ。大蛇は倒され、八丁池は大蛇の血で赤く染まり、この時の7つの樽はこの3兄弟によって河津川に流されると、後に河津七滝の滝壺になったという。
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そんなとき甲斐(山梨)の弓名人の猟師が伊豆にやってきた。ある日、猟師はこの大蛇が人に危害を及ぼしていることを耳にした。里人は猟師に大蛇の退治を頼み込むと、弓名人の猟師は大蛇を射止めることを約束してくれた。
弓名人を大蛇をいる場所へ案内し、里人が鐘や太鼓を鳴らすと、それに気がついた大蛇が近づいて来た。猟師は弓を引こうとしたところ、池の水が盛り上がり、大蛇の勢いの良さに間に合うず猟師は飲み込まれてしまった。
猟師の娘である2人娘はこの話を聞き、仇を取ろうと弓の稽古を重ねた。そして、上達した2人は伊豆へ向かい、里人に大蛇のいる場所へ案内をしてもらった。
暗い夜に大きな岩に身を隠して大蛇を待つと、生臭い臭いと月のような鏡のような2つの光りが山からゆっくりと降りて来た。2人の娘はこの光りに弓矢を強く引いて放ったところ、二つの光りに矢が刺さった。その瞬間、大きな山鳴が響き渡り、大蛇は大きな岩に挟まって身動きができなくなった。それから一週間もこの大蛇の鳴き声は里まで聞こえたという。
この2人の娘の妹は「小杉」といい、この地にとどまったことからこの地を小杉原といった。大蛇が挟まった岩は蛇ヶ挟、大蛇の骨を里人が拾い葬った寺が蛇骨山大蛇院、のち大地院となり、大蛇の血が溜まった池は池代、そしてここに血源院が建てられた。