下田港は、幕末に黒船で来航したアメリカ海軍の艦隊が寄港して、ペリー提督が下田港の開港を求めて下田条約を締結して、開港することになりました。鎖国から開国への大きな歴史の一コマが下田に刻まれました。下田港を臨む「ペリー上陸記念公園」には、ペリー提督の胸像とアメリカ海軍から寄贈された錨が飾られています。
Information
- あり-無料-数台
- 伊豆急・下田駅から徒歩
- あり
- 難易度
- 街歩き
- 安全情報
- 敷根の石丁場跡は私有地のために、立ち入りには許可が必要です。
周辺の見どころ
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開国記念碑
下田開港百年を記念し下田公園の中に建立された碑です。ペリーやハリスの言葉や肖像が彫られています。
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了仙寺(りょうせんじ)
1854年に締結された日米和親条約の細かい取り決めとなる下田条約を、米国海軍と幕府との交渉した場所です。下田条約はここで締結されました。
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津波の爪痕
安政東海地震による大津波が下田港を襲いました。高さ5~6mの津波が船を流し、お寺の梁(軒を支える張り出し板?)に、大きな傷跡を残しています。
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了仙寺横穴遺跡
お寺の裏手には横穴遺跡があります。元々は凝灰岩が海食された洞穴でしたが、古墳時代には有力者のお墓として利用されたと推測されています。
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ペリーロード
アメリカの提督ペリーが、下田条約の交渉のたびに、下田港から了仙寺まで通った小径が平滑川(ひらなめがわ)沿いに残されています。
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伊豆石の石倉
今では石倉やなまこ壁の町並みが残る風情のある川沿いの小径です。
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ペリーロード沿いの店
平滑川沿いには、石蔵やなまこ壁の風情のある店が並びます。
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安直楼(あんちょくろう)
幕末の歴史の中で波乱に満ちた人生を送った斉藤きちが、42才の時に開いた小料理屋が保存されています。
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なまこ壁の家
土壁の上に、平瓦を並べて貼り着けていき、瓦と瓦の継ぎ目部分に白い漆喰を蒲鉾の形に盛り付けて塗っていきます。このボコっと盛り上がった形がナマコに似ていることからナマコ壁の名が付けられました。耐火性が優れています。
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なまこ壁の家[雑忠]
「雑忠(さいちゅう)」を預かる鈴木家は、屋号を「雑賀屋」と称した廻船問屋で、代々「忠吉」を名乗ってきました。「雑忠」は「雑賀屋忠吉」の通称です。
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旧澤村邸
ペリーロードの終着点に立つ旧澤村邸はなまこ壁と伊豆石造りの建築様式を用いた建造物です。無料で一般に公開されています。
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蔵ギャラリー
旧澤村邸の裏にはなまこ壁の石蔵が残り、ギャラリーとして利用されています。
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蔵ギャラリー内部
ギャラリーの内壁には、伊豆石が使われています。
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長楽寺(ちょうらくじ)の石段
安政東海地震で発生した津波は、長楽寺の石段の下から2段目まで津波が到達したとのことです。
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稲田寺(とうでんじ)の津なみ塚
稲田寺境内左側には安政東海地震後の大津波で犠牲となった方々を供養する津なみ塚が建立されています。
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春日山(かすがやま)三十三観音
下田小学校南の春日山には、伊豆軟石(凝灰岩)の石丁場跡に三十三観音の写し霊場が設けられています。登山道の入口には、厄除観音堂があり、ベンガラで塗られた聖観音菩薩像が祀られています。
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阿弥陀三尊像
善光寺如来形式の阿弥陀三尊像の石仏があります。
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十一面千手観音
凝灰岩の崖を刳り抜いて、石仏を祀っています。
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石仏群
石丁場跡にたたずむ観音様たち
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敷根(しきね)の石丁場跡(いしちょうば)
下田富士の西にある敷根地区には、伊豆石の石丁場がいくつかあったそうです。火山灰や軽石が堆積した凝灰岩は、耐火性に優れるので、江戸~昭和明治にかけて建築用(石蔵)に切りだされました。
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旧南部製氷所の伊豆石の蔵
既に取り壊されてしまいましたが、敷根石が使われた石蔵がありました。
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大安寺の露頭
大安寺駐車場のシマシマの凝灰岩の崖には、いくつもの龕が設けられて、石仏がはめ込まれています。
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鵜島・下田城址
下田湾に張り出す鵜島(うしま)には、戦国時代の下田城址があります。
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下田城址・主郭
鵜島の稜線上の広い平地に主郭があります。
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下田城址・畝堀
主郭の南には畝堀が見られます。